これは今から26年前の1981年2月24日、故教皇ヨハネ・パウロⅡ世が歴史上はじめて日本の地に立ち、その大地に接吻し、来日のメッセージとして述べられたことばです。
巡礼とは、空間的移動のみならず、時を超え、精神的領域にまで踏み込んだ上質の旅を意味します。
故教皇はいまだ平和を享受できない現代世界に対して、ともに責任を果たそうとして平和を説き、平和を求める巡礼を勧められました。
そして、2月25日は、広島の平和公園において「戦争は人間のしわざ」ではじまるあの平和アピールを世界に向けて発信し、「過去を振り返ることは未来に対して責任を持つことである」とくり返し、いまわしい原爆の記憶のみならず、さらにさかのぼって、キリスト教迫害と殉教の歴史の掘り起こしの中に、平和の源泉を求めるよう、うながされたのです。
26年の年月を経て、その掘り起こし作業は「ペトロ岐部と187殉教者列福式」として結実しつつあります(※1)。そして日本各地に広がる、その歴史の証人たちゆかりの地は、いまだ全体が結ばれているわけではありませんが、各地の巡礼地としてのその体裁も整いつつあります。
時を同じくして、長崎の教会群とキリスト教関連遺産が世界文化遺産として認められる道も開かれてきつつあります。建物のみならず、その建物を中心として営まれてきた精神文化こそ、世界遺産に価するものであり、その耕しがすなわち平和構築作業とも重なるものでもあります。
また、8年後の2015年は、あの有名な歴史的出来事である大浦天主堂を舞台とする「信徒発見」から150年目の節目を迎えます。150年を経た今は、いわば世界が長崎を発見しようとしているともいえるでしょう。
その地、今秋(10月〜17日)には、アジア巡礼所会議も予定されており、巡礼のアジア展開も視野に入ってきつつあります。
このような内外の歴史の流れをながめるとき、ほんものを求めて旅する人々の群れは、故教皇の巡礼に続くかのように絶えることなくき、そのながれはこれからますますふくらんでいくことが予想されます。
こうした時のしるしにうながされ、ここに「長崎巡礼センター」を設立することになりました。なお、ここで言う「長崎」は長崎県全体を指しています。
この巡礼センターが時と空間を越えて進められる巡礼者の歩みの交差点になり、出会いの場となり、さらなる上質の旅へとつながるための拠点となることができれば、その設立の目的の大部分が達せられたということになります。巡礼者に豊かな祝福を願いつつ…。

